いいこでまってて(081215)






ふっと触れたくちびるがほんのすこしだけ離れて。
雲雀のくちびるの表面で、ディーノのくちびるが口角を上げてほほえみの形を作ったのがわかった。その顔を見たくてまばたきをする。目の表面を水の膜でうるおす。できるだけ視界が鮮明になるように。
でもディーノの顔は雲雀に近すぎて、結局どんな表情をしているのかはわからなかった。

「きょうや」
一文字ずつ、まるでそれがこの世界でいちばん大切なひみつのことみたいに。 音声を伴わないことばをくちびるの動きだけでひかえめにささやいて、もう一度ひたりと重ねる。
ただただやわく触れるばかりのそこからとくとくとぬるい温度がしみてきて、雲雀もディーノにならい眠りに誘われるように目をつむった。

とくとくとくとく、体温の音が聞こえてくる。ぬくもりを共有する。からだの一部がディーノに同化してしまうのではないかと思うような。時間に比例してかすみがかってくるあたまのすみっこで雲雀は思う。

(………どうして僕は)

この得体の知れないおとこにこんなこと許してるの、とか。
隙だらけの今ぶん殴って地面を舐めさせてやろうとしないんだろう、とか。

ふつふつと凶暴な自問が浮かんではきたけれども、そんなものおもいはぜんぶ雲雀を突き動かす衝動にはなれないまま。とろけてどこかへ霧散してしまった。

「…おしまい」
もやもや思いわずらっているとふいにぬくいかたまりが遠ざかる。
まばたきの速度よりゆっくり。ぼんやりまぶたを持ち上げると、もうとっくに見慣れてしまったディーノの顔が雲雀のなみだの膜の上、さっきよりは遠くなった距離でようやく像をむすぶ。

わらっている。
眉尻を下げた、まるでちょっと泣き出すまえみたいななさけない顔で。
「……なに」
雲雀よりもずっとおおきな手が、黒いつやつやの前髪をくすぐるようによけて額にさわってくる。そのままくしゃくしゃにまぜっかえされた。
ぱらぱらと舞う髪と、思いのほか力のこもったてのひらがうっとうしくてむっとする。けれど不思議なことにやっぱり殴りつけるほどの欲求は湧きあがってはこなかった。 どこかに殴り倒したいきもちもちゃんと存在はしているけれど、まるで遠い国のことのようにおぼろげだから仕方ない。なかばあきらめて、肺から息を抜いた。


ディーノといると、いつからか雲雀はこうだった。
普段なら許さないことをやりすごしてしまえる。
させたいように、ほうっておいてしまえる。

気に入らないことは力で排除して。気に食わないものは地べたに這いつくばらせてきた。今までずっとそうやって。
だから、気に入らないのに力で排除する気になれないことや、気に食わないのに這いつくばらせる気分になれないとき、どうしていいのか雲雀にはわからない。どうしてそんなきもちになってしまうのかも。
相反する一致しないはずの感情が自分の中におなじ強さで同時に存在するふしぎを。もてあましている。どうしたらいいのかわからなくて、立ち止まる。動けない。もどかしい。なのに、いやじゃない。

こんなのは自分らしくないのかもしれないと考えるけれど、そう思ったところで雲雀自身はみずからの衝動に忠実に従っているだけなのでそれこそどうしようもできない。もぞもぞしたこそばゆいきもちが心地悪く、けれどとりたてて嫌悪するほどでもない。はじめてのきもちはやっぱりなんだか落ち着かないことだった。


ディーノのてのひらは飽きもせず雲雀の髪をすいている。
世界中のやさしさをぜんぶうつしとったような手つきでいつくしまれる。そんなふうにされても雲雀には返せるものはなにもないのに、そんなこといいんだよと言わんばかりのあたたかさで。

なに、はねーだろひでーな、とさほど気にしたふうでもなく笑ったディーノはすこし膝を折って屈みこみ、雲雀の目をまっすぐのぞく。
あわくやらかく見つめてくるもくれん色のまなざしはうっとり溶け、こんななまぬるい時間がずっと続くように思い違いわせる。さきほどまで雲雀をあまやかしてうつくしんでいたくちびるは、それでもさいごは雲雀よりずっとひどい言葉を口にするに決まってるのに。

「…それじゃ、帰るな」

ほら。いつだってあなたはそうだ。

言えなくてきゅっとくちびるを引き結んだ。
また明日学校で、みたいな別れのあいさつをしないでほしいと思う。だってそんなこと言われたら明日もまた会えるような気になってしまう。ほんとうは会えるわけもないのに。8時間も過去の時間へ戻ってしまうくせに。

ディーノの手が、雲雀の毛並みを確かめるように丁寧にひとつ撫でて遠のく。離れがたいという意思をもって。
「んなかお、すんなよ」
どんな顔だというのだろう。
雲雀には自分の顔は見えないからわからない。
困った顔をしているのも、泣き出しそうなのも、ぜんぶディーノの方なのに。
言ってやろうかと思って。やめた。たぶんこの男は自分の方がしょうもない顔をしていることを知っていて、雲雀に対しておとなぶっていることをちゃんとわかっている。
そんなだから、くだらないお願いごとのひとつでも最後までおとなしくきいてしまうのだ。

「すぐまた来るから」
だから。

いいこで、まっててな。