ぼくのかわいいフィンチ(090116)






とおくでやらかい声が聞こえる。
水の中で聞いているようなぼんやりとしたまろい振動が、雲雀の鼓膜をやさしく撫でゆるゆる揺らす。それはむりくり引き上げようとするうとましいものでなく、水中をどこからか漂ってくる水の泡のようで。しろい上等のコットンの海にうもれてくうくうねむっていた雲雀の意識はすこぶる自然にふうわり浮かび上がった。
まだ覚醒というにはほどとおく、眠りからさめているのかいないのか。体温を上げたあたたかなからだではどこからが夢の境い目かもあいまいで。うつらうつら何度かまぶたを上下させてはまた閉ざした。まどろんでとろとろになったからだがここちいい。
追いうちをかけるように耳や髪をさらさらたどる指先がこめかみのあたりからかたちのいい側頭部を往復しているのがまたきもちがよかった。ディーノの手だ。

「…」
雲雀の眠っているベッドサイドに腰掛けて、携帯電話に異国のことばを乗せている。うたのようなひびき。深夜のつきんと澄んだ空気に、高くもなく低すぎもしないディーノの声はおそろしくよく映えた。

たぶん、なにかしら歯の浮くような(それこそ映画か小説のメロドラマでしかお目にかかれないようなやつ)せりふを口にしていることはなんとなく知れる。耳のいい雲雀には受話部分からかすかに漏れてくる相手の声も聞こえているから。うれしそうに浮かれた、女の。

強いけれどもいいかげんな男だと思う。
ちいさくあまったるい、とける声で恥ずかしいことをぺらぺら平気で言っている。修行期間と称してディーノが雲雀にまとわりつくようになってからというもの、キャバッローネファミリーが借り切っているこのホテルに雲雀も毎日のように泊まっていたが、ディーノの電話の相手が毎晩違うことくらいは知っていた。
昨日は声が高い若い女、おとといはディーノよりいくぶん年上かと思うようなやたらに落ち着いた女、その前はつややかな色っぽい女。そのどれもに、ディーノは分けへだてない情を均等にふりまいている。まったく風紀の乱れがはなはだしいことこのうえない。
ただ、声とおんなじあまやかさを乗せたディーノの手が飽きもせず梳いている毛並みだけは、あたりまえだけどいつも雲雀の黒髪で。不実な男にはいっそ不自然なくらい、それだけは毎日おんなじだった。


さきほどよりはいくらか鮮明になった意識をもてあまして雲雀はころんと寝返りをうつ。体勢を変えたとき耳のうしろをかすめたディーノの指先がくすぐったくて身をよじる。
寝起きのとろんとしたうろんな視線でちらりディーノを見上げた。カーテンの隙間からさしこむ、ぼんやりした月明かりなんかでははっきりした表情はわからない。ただひどく居心地の悪いまなざしを向けられていることは知れた。
「Attenda prego……ごめん、うるさかったな。」
髪をとかす手が止まって、くしゃっとやさしく前髪をかきあげられる。くちびるの端を持ち上げたディーノが近づいてきて遠慮のかけらもなくまじまじ顔を覗きこまれた。近すぎる。
「目、覚めちまった?」
おかげでディーノが放置している携帯電話まで近くて、そこから漏れてくる取り乱した甲高い女の声がうるさいのだ。きっと誰に話しかけてるんだとかそこに誰かいるのかとかそういうことだろう。一般に女がそれを問い詰めたくなる心情くらいは雲雀もなんとなく知ってはいる。
「ん?」
でも吹っ掛けられている本人はそんなものどこ吹く風といったていで知らんふりをしていた。雲雀のごきげんばかりをちょこまかうかがう。そうしているうちにも、電話口のわめき声は発狂しそうにひどくなった。
「………うるさい」
けだるくうまくまわらないままの口でやっとそれだけつぶやいたら、ディーノはちっとも悪く思ってなさそうにごめんごめんと笑いながらもういちど前髪を撫で上げて、雲雀のつるんとしたひたいをあらわにする。それから、ちゅっと。不特定多数といえどもこいびととの電話中にはふさわしからぬふとどきな音をたててくちびるをつけた。寝起きですばやくあらがえないのをいいことに。
(……ころす)
そうしたらそのしょうもない音を拾ってしまったらしい技術の粋の結晶からこまくをつんざく半狂乱みたいなかなきり声がして、それきり途切れて静かになった。

いたわしげな手はそれでも全然止まらない。
「…それ」
「んー?」
「…」
「あ?」
これも、もうここ数日何度かくりかえしたやり取りだった。わざとなのかそうでないのか、いま気付きましたとでも言うように放置していた携帯をとり耳にあてる。
「あれ、切れちまってる」
なんでだろーなーと本気で言っているならそうとうなバカだ。ディーノはおそらくそこまではバカではない。だとすると故意の犯行ということになるけれども、その理由なんて雲雀にはよくわからない。
どうでもいいことだ。
(…どうでもいい)
もう一度、自分に言い含めた。
「寝る…」
わからないことを考えるのはむいていない。

雑音が消えて、雲雀からのいらえを求めないディーノのぽつぽつしたひとりごとと、ふたたび髪を梳きだした手元からこぼれるさらさらした音。ふたつだけがせまい世界をみたすぜんぶになる。
「なあ、まーた振られちまった」
(自分のせいでしょ)
「あしたはロベルタにかけてみよっかなぁ」
(…またちがうひと)
「あれ、おとといかけたっけ…?」
(……おぼえてないの)
「…そのうち、電話に出てくれるコいなくなっちまうなー」
(…………あたりまえだよ)
「…恭弥のせい。だぞ?」
聞き捨てならないうらみがましい言葉とはうらはらに、ディーノのかすかに笑う気配があった。
「…おやすみ」

恭弥。

ただその夜いちばんの切実な声で名前を呼ばれてあっという間に眠気がひどくなったから何をか言い返すことはできなかった。また眠りの底へ頭からするする沈む。暗くてぬるい、どこまでだって潜っていける底のないひとりきりの海。
今まではいつでもひとりで行けたその場所へ、今はディーノにいざなわれていることがふしぎだった。

「……おまえがやだって言えばもう誰にも電話なんかしねーのに」
だから。

言ってよ。


雲雀が意識を手放す瞬間を見はからったようにこぼされたささやきをは耳鳴りみたいに残って、脳の底をほのかにあまくちりちりこがした。
うらみごとをまるまま聞いてやるつもりはないけれど、雲雀のせいでへらへらの金髪がのきなみ恋人にふられているとしたらとってもいい気味だと思う。こいびとより雲雀に夢中だというのもそう悪くないきぶんだった。だって、雲雀ばかりがディーノをやっつけることに夢中なんてフェアじゃない。
雲雀の手をバカみたいに待ってるきんいろのいきものは、かわいくないこともないだろう。
(もしかしたらかわいがれるかも…)
だからいつかは。
すこし撫でてやってもいいのかもしれない。とけゆく意識のすみっこでそう思った。