花に嵐(090120)






(……最悪だわ…)

あ、やばいと思ってポーチをさぐったときにはもう遅かった。しかも、自覚するととたんに痛みを増すからほんとに病は気からって正しいんだと思う。でも正しいとわかったところでどうにもならない。

「いたたた…」
暖房と満員の他人の熱量とでねっとりした熱気のこもる電車では痛みと一緒に吐き気までしてとても立っていられなくて、押し込められていた車両のなかほどから転がるように降りてホームにしゃがみこんだ。
よりによってこんなときに痛み止めの薬を飲み忘れるなんてついてない。
(朝はやっぱり余裕持って起きなきゃだめね…)
もう寝坊しないわと反省してみるものの、それで腹部のにぶいいたみがひくわけもなく。吹きっさらしの冬の風が、まるまった全身をひゅうひゅうすり抜けてじっとり体温を奪っていく気がした。冷えるとよけいにうずきがひどくなるとはわかっていても動けない。


「君」
黒い影が朝日をさえぎり、つむじの上から落ち着いた声色が降ってきた。朝に似つかわしいというよりは夜にふさわしい、ふかく澄んだうつくしい声だと思う。風上に立ってくれたおかげで遠慮なく吹き荒れていた風がいくばくかましになりすこしほっとした。
「並高の制服だね。」
それもつかの間、うまく動かないからだの緩慢なうごきでわずかに首をひねりちらり見上げると。
立っていたのはひとつ先輩の、おそるべき風紀委員長の姿。
(げっ…)

中学生のときから並盛の規律として君臨し続ける黒髪の男は、高校生になってからもかわらず風紀委員長として並盛高校をその支配下に置いていた。
朝っぱらから駅のホームなんかで座り込んでいたら、風紀が乱れるとか言われてしまうんだろうか。そもそもこの時間に駅のホームにいたら一限目にはまず間に合わない。さぼりだと思われたらどんな仕打ちが待っているんだろうか。
黒川のあたまの中を、いやな妄想がいままでに聞いたことのある風紀委員長の暴挙のうわさとともにかけめぐる。
(生理痛だなんて、説明してもね…)
けれどどんなお達しをうけようが脅されようが、どのみち今は従えない。自力で動いてどこかへ移動すできるならとっくにそうしている。命令されてもどうせどうにもできないんだし、と覚悟を決めるときもちはいくらか楽になった。さっさと罰を下すかそうでなければどこかへ行ってくれればいいのに。
(バカみたいに立ってないでさ)
聞こえないようふう、とほそいためいきを吐き出す。ひざこぞうに埋めた顔でちらり雲雀を盗み見た。
きちんとプレスされ、きっちり折り目のついた制服。どうひいき目に見たって体格がいいとは言えないきゃしゃで線の細いからだのどこに、いろんなうわさで耳にするような暴力的な力がねむってるのかふしぎだった。しろい肌はつるつるしていて、繊細な印象をいっそう際立たせている。雲雀恭弥だと知らなければ、はかなげな美少年に見えたかもしれない。
「った…」
ものおもいにぼんやり気をまぎらわせていたら、また急にねじれるような腹痛がおそってきておもわずちいさく声をあげてしまった。

「…立てなそうだね」
いつも雲雀が肩にひっかけているだけの、けれど今日はきちんとそでを通して着られていたつめえりを脱ぐころもずれの音がする。なんだろうと思うまもなくそれをふんわり肩にかぶせられた。体温のうつった黒い上着は冷えたからだにはしみるようにあたたかくて、体温なんて感じさせないひとのものだから、ほどこされた行為そもののよりその温度におどろいた。
「え…」
「いやだろうけど、がまんしてよ」
直接触れないよう黒い上着でていねいにくるまれて抱き上げられる。ふとももまでくる長い布地に、いくらきゃしゃでもやっぱりおとこのこの先輩なんだなと場違いに感心した。
「ちょっと…」
「あんなところにいたらよけいに冷えるんだからしょうがないだろ」
まごついた声を拒否ととらえたのか雲雀がいささかむっとして言う。黒川としては予想外すぎる行動への動揺と申し訳なさから思わず発したのだけれども、雲雀がそのまま早足に歩き始めてしまったのでもうおとなしく運んでもらうことにした。相手に多少問題があるにせよ最悪な状況からは逃れることができてラッキーだ。とにかく寒さから開放されたことで気がゆるんで目をつむる。雲雀の清潔なしろいシャツの肩口からはそのすずやかなすがたかたちからはあまり不似合いなほのかにあまい香水のかおりがして、このひとでもこんなものつけるのね、とひどく意外に思った。
だいたい、他人にひどくすることはあってもやさしくすることなんてあまりなさそうだと思っていたから、うわさってあてにならないかもと反省する。だって黒川を運ぶ足取りも、無意識なのかもしれないけどなるたけ揺らさないよう注意が払われているのがわかる。
(でもこれってきっと)
たぶん誰かにこういうふうにたいせつにあつかわれているのだ。にんげんなんて、結局は自分が受けたものしか他人にもあたえられない。想像や空想で表面をつくろっても、それだけではほんとうにやさしくはなれない。雲雀をこんなふうにあつかうひとがどんなひとか、純粋に興味がわいた。




駅の医務室は雲雀があらわれたとたん大騒ぎになり、黒川ひとりではうけられなかったであろう丁重な待遇を受けてしまった。女性職員に痛み止めの薬をもらい、あついミルクティーを飲みながらあかあか燃えるストーブで足をあたためていると痛みもしだいにひいて、とろとろ眠くなった。とおくで雲雀がどこかに電話をかけている声が聞こえる。
「うちの生徒が今駅の医務室にいるから迎えに来なよ。車で。……並高の保険医だろ?当然の仕事だよ。……………女子だよ。」
今朝最初に声をかけられたときも思ったけど、静かできれいな声だった。むかえに来るのはどうやら高校のエロ保健医(このひとは、なぜだか黒川たちの進学とともに並盛中学から持ち上がりで転籍してきた。)らしいけど、雲雀がエロ保健医と女子高生を二人にすることはないだろう。
携帯電話をたたむかわいた音がひびいて、雲雀の足音がかつかつ向かってくる。
「今からうちの保健医が迎えに来るからもう少し待ってなよ。」
事務的に告げ、ついたての向こうに腰を下ろした雲雀の影絵の線を目でたどった。本人だけでなく影の輪郭までがしゃんとしていていっそかわいい。ほんの数十分前までは考えられなかったおだやかさだった。
「雲雀さん」
「なに」
「いろいろありがとうございます。上着、お返しします。」
「いいよ。とりあえず学校着くまで着てなよ。」
「…冷えませんか」
「冷えてるのは君だろ。」
「…」
「…」
(…無口で無愛想でそっけなくてとっつきにくい朴念仁なだけかも。)
雲雀が聞いたらむっとしただろうことを心の中でだいたんに考える。今はもう雲雀のことがそんなにこわくなかった。
「あの」
「…なに」
「さっきシャツからすごくいいにおいがしたんですけど、雲雀さんも香水つけるんですね」
「……………………さあね。」
なにかまずいことを言ったたらしい。あからさまに雲雀の声のトーンが低まる。別の話題に切り替えなければ。
「…」
「…」
「あ。」
「…なに。」
「そういえば、いつもバイクで登校してるのにどうして今日は電車だったんですか?」
「…」
「…」
「……………きみ、もう寝てなよ。」
「………すみません…」
おさえてはいるのだろうけれどあからさまな動揺がシルエットからさえ伝わってきて、怒られたにもかかわらず黒川はちょっとおかしくなって、ひとりふくみ笑いをもらした。女のカンからいくと、あまいにおいは移り香、電車通学は彼女のうちから朝帰りというところだろうか。
(となると相手はうんと年上の大人の女ってとこかしら)
黒川へのあつかいも、それなら納得できる気がした。そこいらの鼻水たらした男子高校生ではまだできないやさしさ。
(……ちょっと残念)
おなじ高校でこんなにいい男がいるとは思わなかった。しかも中学から知ってるひとなのに。
あーあ、いい男はもうひとのものなのね、とちょっぴりはすっぱにつぶやいて、黒川は命じられたとおりみじかい眠りにつくことにした。