さざんか咲くころ(090124) (あれ…) ほんとうに思わずそうしてしまった。 いつも、ものをすごくきれいに食べる雲雀がめずらしく、こってりしたチョコレートをくちのはじにちょこんとくっつけていたものだから。 「…」 ホテル最上階のラウンジの、お上品にざわざわささめいていた空気が一瞬とまって、音のない世界になる。違う。時間は止まったりなんかしなくて、ただディーノひとりだけがうすっぺらく切りとられてしまったみたいに動けないでいるだけだった。 うっかりというか無意識にというかついついというか、まあ「思わず」という言葉をこれほど身をもって体験することも今後あまりないのかもしれない。日本語はむつかしい。そのつもりはなかったといえば雲雀は許してくれるだろうか。 (そもそも許すってなんだ。何を。) 思考が戻ってくるとともに聴覚もだんだん意識を取りもどしてざわめきの中にディーノもじょじょに立ち返る。 「あ、わりい。な。」 「…取れたの」 「あ?ああ。うん。」 そうだった。チョコを。取ってやろうとしたんだった。 「そう」 みじかくディーノを一瞥すると、雲雀はまたケーキに向き直って口をもぐもぐさせている。アイスクリームの添えられたロイヤルチョコレートとかいういかにもホテルのケーキですというかんじのお高くとまったケーキはちょっと雲雀に似ていた。 (…そんだけ?) ディーノのかん違いでなければ今のはもしかしたらキスだったんじゃないかとおもうのだけど。 放課後の学校の屋上で(これだけ聞けばなんだかノスタルジックだ。)ひとしきりじゃれたあと雲雀をつれてホテルに戻った。 適当にシャワーをあびてしずくをぬぐっていたとき、あとからあがってきた雲雀のおなかがぐうとせつなく鳴ったので、ルームサービスを取ろうかと提案するとレストランの半個室に行きたいという。ランチはともかくディナーのお値段は超一級である。しかも個室。たしかに個室なら群れないが。ぜいたくを覚えさえてしまってはいけないなあと思いつつ、かわいい弟子にあまあまなディーノは即刻内線で空きを確認したのだった。 「恭弥恭弥、ここついてる」 「二回も呼ばないでも聞こえる」 とんとん、ごきげんで口元の右端をつつくと夜景のきれいなカウンターでディーノの隣におぎょうぎよく座っていた雲雀は不機嫌に口元の左端をぬぐう。 ほんの数時間前にぜいたくを覚えさせては、とかなんとか自らをいましめていたディーノはその決意も忘却のかなたに、部下の控えていたラウンジに移動して雲雀にケーキを食べさせていた。 正直なところ食欲旺盛な弟子を見ているのがたのしくてしかたない。ディーノにしてみれば見ていてちょっと心配なくらいほそっこい雲雀がもりもり食べているのは健康のあかしだなあと安心できるので、食べられるだけどんどん食べさせたくなってしまう。いまにこのしろい制服のシャツが肉でぱつんぱつんなってしまうかも、それかわいくねえなーとワイン二三杯でたいして酔っ払ってもいないあたまで考えて、あれだけ動いてそれはないだろと自分でつっこんだ。 「おいおい取れてないぜ」 もくもく食べすすめる雲雀のくちびるのきわにはまだ黒いチョコがくっついている。こどもっぽくてかわいいけど、ラウンジを出るときにはずかしいのは雲雀だろう。ぬぐってやろうとひとさしゆびの第二関節でちょっとふれたけど、もう固まってしまったのかとれない。雲雀は迷惑そうにしているが、ふりはらうこともしなかった。 しょうがないので、ハンカチで拭いてやろうと濃紺のポケットチーフを取り出してきちんと折りたたんでいたツインピークをくずす。硬いハンカチを一枚のやらかい布に戻す過保護さには気付かないでぎゅっとつよめにこすった。とれない。 「いたい…」 毎日あれだけ人を痛いめにあわせてさらに自分も痛いめにあっているくせにたったこれっぽっちのこんな刺激が痛いはずがない。きままな物言いにやれやれと肩をすくめて、あらためてくちもとを見た。汚れはもうすっかりディーノに取らせる気でいる雲雀はあいかわらず勝手にもぐもぐやっている。 ぜいたくにきらめく照明のひかりを銀色に反射するフォークで一口大に切り分けられるチョコレートケーキが一定の速度で吸い込まれるくちびるからのぞくあかい舌にみとれた。だいたいチョコレートなんて体温で舌先で。かんたんにとけてしまうくせに。そう思って、もうべつになんのこころづもりもたくらみごともことなくごくごく自然に顔を近付けたら。 舌先をちょこっとのばしてなめたチョコはほんのすこし苦みばしってディーノの舌を焼いた。あまい食べものだと思っていたらそうでもなかったことにおどろいてくちびるを離せなくなる。じっとそうしているともごもご咀嚼しようと動いていた雲雀の動きも止まってしまう。中途半端にうすくひらいたくちびるのはじを、ディーノのくちびるがほんのわずかふさいでいる。すごくみじかい時間だったんだろうけど、ばかみたいにディーノはほうけていて時間の感覚はわからなかった。 「ねえ、紅茶が飲みたい。」 さっさと注いで。 「あ、うん。」 いつもならえらそうな弟子にこごとのひとつも言えるだろうに、まぬけにうなずいてしまう。かるく手を上げて給仕を呼ぶ。 ぺろっと食べ終わったケーキのお皿は、アイスクリームの残骸とプラリネの粒がふたつぶみつぶ残るだけのそれはそれはみごとな食べ跡だった。ケーキも本望だろう。ふうっとまんぞくげに息を吐いた雲雀の顔のもうどこにもチョコレートはついていない。 しずしずやってきたポットの中身が雲雀のカップに注がれるのをぼんやり見ている。空になったワイングラスにももう一杯おなじものをもらって、そのいっさいがっさいディーノ以外のぜんぶがあんまりにふつうなことがいっそおかしく感じられた。だって、キスだとおもう。意図的でなかったにせよ少なくともディーノはそう思う。だとしたら雲雀がそんなことぜったいに許すはずがない。 今のはもしかしてゆめだったんですかとだれかれかまわず問い詰めたい。白昼夢をみているかきつねにつままれたようだった。雲雀はチャイナボーンのしろい陶器の中身にふうっと息を吹きかけ冷ましている。 ああそんなふうに拗ねたみたいにちょっとくちびるをとがらせてはいけないと指導しないと、とディーノはあわてて、なんでそんなことを言わなければいけないのかとまたわれに返ってどうしようもなく落ちつかないきもちになった。 ディーノのかん違いでなければさっきのはやっぱりキスか、さもなければゆめだったんだとおもう。あとで、ラウンジにちりばめられている部下に聞いてみることにして、今はいけないものをみるようなちょっとしたうしろめたさでもって、いたってふつうにしている雲雀を盗み見ながら赤い液体の入ったグラスをあおった。 |