あめふらし(090128)






誰にも聞かれていないと思った。まして雲雀になんて。

だからいまだに頭の上がらない家庭教師から投げかけられたからかうような問いかけに、かざりけひとつないいらえを返した。
どうせうそなんてつけないし、ついたところでみすかされているに決まってる。だいたい相手はディーノの答えなんてはなからわかって聞いているのだ。自分の見当が的を得ていたことの確認と、ことばあそびのじゃれあい。
言い方は悪いけど有無を言わさず押し付けられたにわか弟子を、けれどいつのまにか憎からず思っていること。ぼくとつなまっすぐさも、いきすぎたなまいきさも今はひどく好ましく思っていること。

もうしばらくのあいだずっと、雲雀のみせるひとひらひとひらの表情を取り落とさないようにディーノは見ている。そのひとつずつのものおもいを何か単語でくくるとしたら、好きだということば以外にはならない気がした。

すごいやつだと思うし、末恐ろしいとも思う。関心もすれば呆れもするけれど、そのすこやかな成長をそばで見ていたい。できるなら、ディーノがこうあってくれたならいいとおもうことやものを視界の端に入れてやるくらいのことはしてやりたい。

つまるところはじめてできた教え子がかわいかった。


「おまえはああいうやつが好きだろ」と言われて。今もって見抜かれまくったままで悔しいなんて感情もわかないくらいほんとうにその通りだったから、好きだよとひそやかに笑った。
口にしたらおどろくくらいそれはしっくりディーノの中になじんでとけて、からだの内側からディーノの骨をくすぐる。
異国のちいさな学校のせまい廊下の窓ガラスから射しこむ夕方のオレンジ色の光がディーノをその一部に取り込むように照らして、こんなおだやかな一日の終わりにはもう武器を交えたりすることなく、かわいい生徒をただからかうくらいで終われたらとひっそり願う。

じゃあな、チャオと一方的に切られた電話を半分にたたむでもなく耳に当てたままぼんやり夕焼けに染まるグラウンドを見ていた。野球部のバットがボールを打つ音、陸上部がハードルを片付ける音。ほこりっぽくきらきらした芽吹くまぎわの新芽の音色をこんなスキだらけでいいんだろうかとつっこみたくなるほど呆けて聞いている。
自分が十四五のときはどうだったっけとたいして思い出しもできない思い出をはんすうしながら、窓ガラスのアルミサッシに反射した夕陽に目をひそめ顔をそらしたら。いまディーノのいちばんの関心事が、めずらしいことにいつものりんとした気配もなくぼんやりただつっ立っていた。


「恭弥いたのかよ!声かけろよなー…」
べったりもたれかかっていたひんやりした壁から体をはがす。閉じそこねたままだった携帯電話のディスプレイはもうすっかり暗くなっていた。
きみわるいくらい微動だにしないうつむきがちな雲雀にそろそろ近づく。距離を詰めるほどに、いつ獲物が飛んでくるのかといういやな胸の高鳴りと緊張がないまぜになったおかしなどきどきを感じている。

けれど、あと一歩で手が届く場所まで行くとそんなぶっそうなどきどきはどこかへ飛んでいってしまった。

「……なに泣いてんだ」

もしも廊下ですれ違っただけならわからなかったかもしれない。
それくらい透明ですきとおった、静かななみだだった。ディーノの言葉にゆっくり目線を持ち上げた雲雀は、なにを隠すこともなくディーノをまっすぐ見ている。わけがわからない、とほんのわずかひそめられた眉が「なんなんだ」といつもの強気で先をうながしている。
「なに、じゃねーだろ」
「だって泣いてない」
こんな強情っぱりのこどもが人前で涙をこぼすなんてディーノにしてみればたしかに驚くべきことだけど、青天の霹靂というほどの衝撃ではなかった。むしろちゃんと中学生の男子っぽい思春期ってやつがあるんだなあなんてちょっとほほえましい。びっくりとほほえましさ半分ずつ。

まだ地を這って移動することしかしらないおさなごにつかまり立ちを教えるためちいさな両手を取る。そういう気分で、雲雀をびっくりさせないようにことさらゆっくり持ち上げた腕をその切れ長のすずやかなまなじりに伸ばした。
逃げないように四本の指でなめらかなほほを覆って、親指の腹で水滴にふれると、しろくうすい日本人特有のうつくしい陶器のような肌がふるりと波打つ。色のない水がディーノの皮膚までじんとあつく濡らした。
沈む船から水を汲み出すみたいに、熱を持った液体を何度もすくい上げゆびさきのうえで乾かしてはまたぬぐう。その動きに夢中になった。
そしていつのまにか、塩分でかわいていく皮膚と同じ渇きを感じている。またどきどきとし出した心臓の音がうるさいくらい大きい。

ゆるやかにまぶたを上下させる雲雀が泣いていることに気付いたかはわからない。わからないけど。