ただいまおかえりまたあした。(090129) ひっそりした空気までが遠慮がちにふかく口をつぐんだ深夜の執務室。小ぶりな窓にかかったカーテンのスリットから差し込む月の光がほんのりとディーノの右側面を照らしている。だいだい色のおちついた照明は、すこし前に落としてしまった。 いまはじっと目をつむって、仕事を終えた後のかるい疲労とたかぶりをさましている。デスクワークで集中していた頭にのぼった熱がだんだんと全身にひとしく配分されめぐっていくのがわかる。血の管を流れる液体の音が落ちついてくると、ゆったり大きなデスクのチェアでそのままうとうとしていたくなった。意識を取りこぼしてみたり、ふと取り戻したりをくりかえす。 そういう、ひとりきりならいつもとおなじきっと静かな夜だった。 どのくらいそうしていたのか、大きくどっしり頑丈なチーク材の扉を力まかせに押し開ける低くにぶい音ではたと目をさました。遠慮というつつましやかな言葉をどこかにぽいと捨ててきたようなこうまんちきな気配を隠しもしない雲雀が、ふらふらそのほそい身を部屋にすべりこませてきた。 「…恭弥?」 月明かりの逆行のなかだったけれども夜目はきくほうだし雲雀のまとうぶしつけな空気をまちがうはずもないから、疑問符をつけて問いかけのかたちにしたけど実際はただ名前を呼んだだけだ。できたら声が聞きたいと思ったから。 二ヶ月ほどまえに目にしたときとおなじように、ほんのわずかスーツをすすっぽくしてすらりとながい足をちょっともつれさせよろめきながら。いすに腰掛けたままのディーノのほうへまっすぐに向かってくる。 ディーノはそれをじっと待っている。 「ねむい…」 「おっと」 ようやっとディーノのそばへたどりついたと思ったら開口一番そんなことを言って、あやつり人形の糸が切れたようにばたりとディーノのうえに倒れこんだ。 「けがしてないか」 うけとめたディーノのうでのにおいを雲雀は確認するようにくん、と嗅ぐ。 そのすっと通ったはなのあたまはちょっとよごれていて、ほほにはぬぐったけどぬぐいきれなかったかすかな血の跡。そでぐりのささくれた黒いスーツと泥が飛んだシャツの襟、ほこりっぽい髪の毛。 雲雀がどんな仕事をしているのかディーノは知らない。正式にボンゴレの十代目となった綱吉との会話のなかで雲雀の話が出ることはあるけれども、ほんとうに雲のようにふわふわあちこちへ行ってしまう雲雀のことを綱吉でさえ把握しきれていないようだった。 俺ってほんとダメですよねぇと言うその顔はけれど雲雀をつかまえて言うことを聞かせようなどとは毛の先ほども思っていないおだやかな表情だったから、ふたりで視線を合わせて笑った。 「久しぶりだなあ恭弥」 脇に手を入れて、中途半端にくずれ落ちたからだをずるりとひざの上に引き上げた。十代のころの成長期のあやういはかなさは消えたものの、線の細さは大人になってもかわらない。あいかわらずディーノの腕が入れ物みたいに、その中にきちんとおさまっている。 全身のどこもふるえたりけいれんしたりこわばったりおかしな反応を返してはこなかったから、服も体もだいぶんよれよれしているがけがはしていないようでほっとした。 「……う…」 おもたい頭を支えることを放棄した首をディーノの肩口にひっかけて、まるまったせなかをてのひらぜんぶで何度か往復したらちいさいうめき声がもれる。 「恭弥?」 「…」 もしかしたら何か言おうとしたのかもしれない。けれど、もうそれきり電池が切れたんだろうぱったりくちをつぐんでしまったあまり人間になつかないけもののような教え子は、ディーノのひざのうえを陣取って寝息を立てはじめた。 頭のてっぺんから足のさきまですみずみからぐったり力の抜けたからだはディーノよりずっとほそっこいとはいえずっしりなまりみたいにおもたい。 しょうがないから支えやすい場所にゆるくそっと抱えなおした。 くうくう眠る雲雀のすすけた黒髪をそろそろなぞる。 腕の中で死んだみたいに眠る雲雀はけれどちゃんと息をして、眠りに落ちたからだは体温をほんのり上げていた。規則正しく上下してふくらむ肺から押し出されるあたたかな呼吸がそのまま鎖骨に吐き出され、ディーノのこともあたためる。 雲雀がそのからだに体温をともして生きている。ただそんなことでなぜだかディーノの心臓はぴりぴりミシン目にそってちぎられて、のどは真綿にきりきりしめつけられてきゅんといたんだ。 仕事だか死闘だかはわからないがこんなふうに疲れ果てたときにだけふらりと雲雀はイタリアに(というかディーノのいるところどこにでも)やってきて、ディーノの都合はおかまいなしに強引に腕の中に侵入してぐったり意識を失ってしまう。だからきれい好きなくせにディーノが見るときはたいがいぼろぞうきんのていだ。 叱ろう叱ろうと毎回思うけど、どうせ雲雀の方には聞く耳もなければこごとを聞く気力もないのでタイミングを逃し続けている。さらに手に負えないことに、仮に雲雀を正座させてしかるなんていう千載一遇のチャンスがあってもたぶんディーノはどうせ本気では怒れない。 だって雲雀がだれかれかまわず他の誰の腕でもこういうふうに眠ったりはしないことを知っている。 誰にうぬぼれだと言われても、ディーノは自分が雲雀の特別だという自覚があった。世間一般の特別とは待遇がちょっと違っていてもかまわない。 しかもそれがうれしい。こそばゆいくらいうれしくてたまらない。それだけに、もうこどもでもないのについついあまやかしてしまうしあたまのどこかでつねにもうずっと気になって気になってしかたないったらない。 前回は二ヶ月前、前々回はその前日、その前は半年。きまぐれなひとがディーノに会いにやってくる時機に周期なんてない。いつやってくるかよくわからないし連絡もないからディーノはいつだってそわそわしつづけている。 たとえばディーノもおとしごろなのでおりにふれ恋人ができたりもする。でも、いつ来るとも知れない雲雀が今日来るかも明日来るかもしれないと思うと毎夜毎夜どこぞに入りびたったり、誰かの質量で常に腕をふさいでおくわけにはいかないきもちになってしまう。べつに誰にとがめられるわけでもない。まして雲雀本人になんて。なのにこのありさまで、まあようするに恋人より雲雀のほうが気になっている。 そうしてしまいには情熱的でないイタリア男なんてとこっぴどくふられてしまったりするのだ。したがって雲雀と出会ってからの七八年、派手だ派手だと思われがちなディーノの恋愛事情はわりとあわれまれるべきものだったりもする。 ディーノ自身いったいなにを待っているんだろうと考えたりもした。けれど結局いつもよくわからなくて思考は途中でからまってもつれて、なにがしかこたえが出たことは一度もない。 ただ、世界のどこかに雲雀がすこやかに存在していてくれたらそれだけでいいと思う。 そうしてたまには腕の中でやすらかな居眠りをさせて。 できれば明日もまた会えたら。 うっそりかんがえごとをしていたら抱いていたからだが急にもぞもぞうごいて、てのひらの動きがぼんやりとなおざりだったせいで起こしたのかとどきっとした。ディーノのことなんて興味がない顔をするくせにないがしろにされるのはきらいなのだ。 あわててディーノのおとがいのすぐ下にある小作りな顔をつぼみのはなびらをはがすようにそうっとのぞくと寝入ったときとかわらず目をつむったままで安心する。 寒いのかもしれない。そう思って、触れて体温をわけることのできる面積を広げようと腕の位置をかえると雲雀のすんなりしたおよびがディーノをきゅうきゅうつかんできた。 こんな体勢で離れられるわけもないのに切実な力のこもった、明日にはいなくなるかもしれない気ままなひとのゆびを一本ずつほぐしてはからめてつなぐ。とたんゆるんだわがままなたなさきにくるしいくらいせつなくなった。 やっぱりディーノはまたあしたも雲雀に会いたいと思う。雲雀がこないなら、ディーノがみつけにいったっていい。なにしにきたのといつもの調子で雲雀は鼻で笑うかもしれないけど、嫌悪されることもないだろう。 (うん、) 閉じ込めておくことなんてまるでできない、どこまでも身軽なからだをこの夜いちばんつよく抱いた。 明日もまたあいてえな。 届くかどうかはわからない。けれどつるりとかたちのいい耳の入り口の複雑な迷路に、おまじないのようにそう吹き込んだ。 |