※「触れなば熱情」を改めたものです。(090306) 全校の日誌にくまなく目を通してひとつあくびをした。わら半紙が夕日をすいこんでもったりぬるくなっている。革張りの椅子の背もたれにもたれかかって目をつむった。いくらだって眠れる。昨晩もその前の日も、他人がそばにいたからよく眠った気になっていてもほんとうはあまり眠っていなかったのかもしれないと雲雀は思った。 ちょうど今も思考回路の中を勝手にくるくるうずまいているきんいろのいきもの。ここのところ雲雀をなわばりの外へ連れ出しては不本意ながら振り回されてやたらにかき乱してきた男が「今日は遅くなるけど夕方行くからな!」とどこで知ったのか雲雀の携帯電話に騒々しく電話をかけてきたので、委員会のたまった仕事を片付けている。 日誌に続いて委員会の活動報告を読み終え伸びをした。たっぷり読み物をしたせいか肩がすこし重たい。そもそも机でちまちま事務処理をするより野外に出るのが断然好きなのだ。 そういえばしばらく出づっぱりで並盛の風紀に目が行き届いていないかもしれない。 咬み殺しがいのあるうるさい男が来るまで並盛を荒らす群れのひとつでも狩ってすっきりしようと思いつき応接の扉に手をかけた。どうせそこかしこに群れははびこっている。雲雀の君臨する校内でさえそうなのだから一歩外に出ればどこにでも、どうとでも見つけられる。 引き戸をひらくとカーテンのかかっていない廊下の窓ガラスが夕日をじかに目に届けてまぶしかった。しぼりたてのみかんジュースを撒き散らした空の色。おいしそうな空なのにこげつく熱を持っている。その火に一瞬網膜を焼かれ目を細めたけど、結局開けていられなくてしばらくまぶたを閉ざした。 ちょっと顔を背けてしばたく。応接の前を横切って伸びるまっすぐな廊下の真ん中を走る白いテープの中央線を足元から順に遠くへ、視線でなぞった。ほこりっぽい空気の中ではところどころちぎれたりはがれたりしているのがよく目立つ。きれいに張り替えさせねばならないだろう。 (……どこの委員にやらせようかな) そのまま曲がり角までゆるゆる這わせようとした視線は、けれど途中でさえぎられてしまった。夕方のオレンジの光をともす見知った横顔と。ひそやかなささやく声に。 ……すきだよ。 「―……」 すげー、すきだ。 目は悪くないと思う。ディーノを見間違うこともないだろうと思う。こんなけばけばしいはでな外人に並盛のそこかしこにいられてはどう考えても風紀が乱れる。ひとりでいい。ひとりしか知らない。 見慣れていると思っていたディーノはまるで雲雀の知らない誰かのような顔をしていた。 整った顔をしていることは知っている。昨日まじまじ寝顔をながめたばかりだ。形のいいあたまも、髪とおんなじで色素のうすい長いまつげも。すっととおった鼻筋やうすいくちびるも。つくりものかと思うくらいきれいで、端整というのはたぶんこういうことだろうというのは雲雀だってわかる。 うっとうしい男だと思った。赤ん坊の知り合いでなければそもそも口をきいてやることもなかっただろうとも。並盛のどこかでうろちょろしていれば有無を言わさず殴りかかるくらいの機会はあったかもしれない。 けれどそのうっとうしい男はへらへら軟弱な外見とうらはらに雲雀の予想よりずっと強くて、手ごたえがあるとわかってからは群れを狩るよりずっと夢中になっていた。ああだこうだとけんかのスタイルに口を挟まれるのも雲雀にとってははじめてで、なんてうざったいことを言い出すのかとびっくりしたけど、素直に聞けば次はもう一歩追い込めることにわくわくした。なのに追い込まれた男は手放しで雲雀を褒めるからその余裕がにくたらしくてたまらなくて殺してやりたいと思うのに、褒められるのは慣れなくて居心地の悪さにぞぞぞと背がこそばゆくふるえた。 だいたい戦う目的がそもそも相手の息の根を止めることなのに、ディーノはどうもそうじゃないようで、ほんのついさっき武器を交えたとは思えないようなやわらかい手つきでいつも雲雀にふれてきた。ふわふわ砂糖菓子みたいにわらいかけてくる。そうして何度も名前を呼んでくる。 傷口をそのままにして戦い続けようとすると怒り出し、けがをすると悲しそうな顔をされて頭をなでまわされるのもおかしな気分だったけど、ディーノの悲しそうな顔はどうしてだかそんなに悪くなかった。 みじかい時間の密度があんまりこまやかで、いつのまにかずっと前から知っているもののような気がしていた。ディーノについていいとか悪いとか悪くないとか他人をそういうふうに考えるほどの興味があることを不可解だと思うすきもないほど。ディーノはディーノでいつも隠し事なんてなにもなくてぜんぶをさらけ出しているような顔をしていたから。 さっさとやろうよ。 そう言おうとして言えなくて、声のひとつ出ないふしぎをひとごとのようにじっと考えている。色素のうすい目はまぶしくなんてないんだろうか。 オレンジを反射するきんいろ。橙色を映すはちみつ。ひみつをささやく低められた声もはにかんだ顔も、ディーノをつくる成分のぜんぶはあまいものでできている。夕方の空にキャラメルみたくとろとろとけてしまいそうなディーノを雲雀はただぼんやりつっ立ったまま見ている。まるでらしくないことだ。 「うおっ、恭弥いたのかよ!声かけろよなー…」 マフィアのボスなんて職業にしてはいささか気付くのが遅すぎる。雲雀のほうへ首を向けたディーノの表情はぱっと明るくほがらかでもう雲雀の知っているディーノの顔だった。 「よっと」 能天気なかけ声をかけ、反動をつけてもたれていた壁から体を離す。そのばねさえきらきらきらきら。しなやかな指先で二つ折りの携帯を閉じながら雲雀のほうへ距離を詰めてくる。はんぶんに閉じられた携帯がたてたぱちんという乾いた音がやたら耳に残る。 不愉快だった。いつもの顔なんていらない。ほしくない。ほしいのは。ほしいのは。 (……ほしがってる?) 「……なに泣いてんだ」 ぐっとあごをひいてねめつけるとディーノが足を止めた。立ち止まったディーノを雲雀はじっとにらんでいる。泣いてる、と言われてなんのことかわからなかった。めんどうだったからなに、と目だけで告げると困ったみたいな苦笑いしてるみたいな心配してるみたいな。そういうわけのわからないかおになる。ばかみたいに間のぬけた顔をしていて、それはそんなに悪くなかった。 「……なに、じゃねーだろ」 「だって泣いてない」 わずかの間もなく答えるとためいきをつかれる。ディーノはしょうがないな、みたいに目をほそめていた。眉を下げて、くちびるのはしっこをちょっともちあげて。どうしてだか知らないけど、さっき電話で話していたのとおんなじ顔だと思う。 「恭弥」 「なに」 「きょうや」 「……」 「……うん、」 雲雀をびっくりさせないようにゆっくりゆっくり持ち上げたんだろう腕がそろそろ遠慮がちに伸びてきた。てのひらがほほにふれて、過敏な皮膚がほんの一瞬けいれんする。 長いおよびは雲雀の小さなほほをかんたんに覆いつくした。中指が耳の下までたどりつく。おやゆびの腹でまなじりをさわられるとあたたかな指と熱のある雲雀のほほのすきまに水分があって、それではじめてそこが濡れていることを知った。 体温とおんなじ温度の液体をすくい上げるように動くゆびさきが触れる部分からぴりぴりしびれが広がる。動けなくて電気を流されたのかと驚いた。 ずっとそうされているとのどの奥のほうで肺よりもっと深いところがひきつれてずきずき痛くなって、息が苦しくなる。傷じゃない痛みだからこわかった。 |