(090420)






「ディーノ、大学は平気よ。今から帰るの。九時の飛行機。」
「はあ?!」
「話を」
大きく開かれた目のふちまでがよく見える。
まつげまでが繊細な金の糸でできていた。
「話をしに来たの」
「なに……」
「ミラノにアパートを借りたのよ。大学を卒業したら、あっちの繊維会社で働くことにしたわ。」
「……」
「あなたのお父さまの設立した奨学金で育ててもらって、大学まで行かせてもらってとても感謝してる。今でもあなたのシマの人たちは私たちのこと、キャバッローネのうちの子だねって言うわ。ちいさな工房で働いて……キャバッローネのお抱えの仕立て屋のアシスタントをさせてもらってた。」
覚えてる?といたずらっぽく笑ってみせる。
そこでディーノとも出会った。今まで見たどんな人間よりうつくしかったまだおさない顔をいまでもときおり思い出す。
ふた親をマフィアの抗争でなくして、ディーノもおなじで。若くおさないなぐさめも傷のなめあいも、けれどもうとおい昔の話だ。
「あそこで働かせてもらって、すこしだけどお金もあるの。もうどこへでも行ける」
きずあとがなくなりはしないけれど。
「ディーノ。あなたも、どこにだって行けるはずよ」
「……」
「私ね。あなたのそのコートの中で傷をかばってもらって何からも守ってもらった。まるくなって、安心して眠ったわ。」
血の出ていた場所にはかさぶたがはってはがれおちて新しい皮膚になった。
その傷をふさいでくれるひとがいることを知って、与えてくれるひとがそばにいてくれた。
ディーノからもらった数え切れないほどたくさんのことを思い出している。
それは夜のあたたかさだったり雨の日のキスだったりした。
これからディーノがどんな人と会ってどんな愛情をそそいでもそれは自分だけのものだ。色があせることのないよう願うこと、それ自体いつか色あせてしまうのを知っているからディーノを見ている。
できるだけたくさん目の内側に脳の中に焼き付けておきたかった。
誰かに向けられているかわからないおだやかな寝顔より、自分を見ているディーノのことを。
「あなたはたくさん大事なものを背負っているけど、両手はほんとにいとしい人を抱きしめていいのよ。そのために二本の腕があるの。」
こわしてしまうくらいほしいもの。こわすのが恐くて手を伸ばせないもの。
「恋を。」
してるでしょう。
自分でも驚くくらいやさしい声だった。
「なんで……」
「わかったの、って顔してる」
「……」
「ひみつよ」
ゆっくりディーノに近付く。
ボストンバッグひとつの体は身軽で、ディーノが似合うといったブルーのニットは日本の雨によく映えた。
ぽかんと開いたままの口がかわいい。どこもかしこもいとしいままだ。
ディーノも確かに好いてはいるだろう。ずるいのだ。ひとしく情をわけあたえることのできる。
イタリアで一緒だったときにはなかった寝顔のおだやかささえ見なければかたく決めたことさえにぶっていそうだった。夜じゅう見ていてよかったと思える。
「歯、食いしばって」
「は……?」
ひとつ息を吸ってそれからバッグを持つ手とは反対の手でほほをぶった。
「ってえ……!」
乾いた音はわりに派手に部屋に響いて、ぶたれた方だけでなくぶった方も痛い。じんじんしびれる手を、でもさすったりはしなかった。
「……これでいいわ。言い訳もしやすいでしょ?」
ふくりとくっきり赤いてのひらの跡が浮かんでくる。逆も同じで、てのひらにはディーノのほほがこびり付いているはずだ。
「早く行ってね。あなたいつも大事なとこでまごつくんだから」
「……幸運の女神は前髪しかねーんだっけ、……っ」
「そうよ」
しゃべる口の動きも痛いらしい。痛そうなその場所にふれようとしてやめた。
「……じゃあね」
ヒールの音なんて響かないやわらかな地面を踏んでドアへ向かう。このドアの先がディーノへ続くことはもうない。それでも開けるのだ。ぎっと音がしてなめらかに開くアンバランスさにひるみそうになる。
「ごめん!ほんとにごめん。ありがとう」
痛いはずのくちびるをかまわず大きく開けてディーノの叫ぶ声を聞いた。追いかけてはこないからだのかわりに、特大の声でなまえを呼ばれる。
その後に追いかけてきたもう一度のありがとうをからだの後ろで受けとめてドアを閉じた。