(090501)






張られたほほのぴりぴりが、虫みたいに全身の皮膚をじめじめ這っている。
「いて……」
ようやっと動かした手でくちびるをさわった。
舌の上にはさびた鉄の味がしている。赤い、見知った色をしているんだろう。すぐにでも腫れてきそうな熱を帯びた場所を寝起きのぼけたてのひらでさすった。
どうして否定のひとつもできなかったのかを考えている。
すきだった、今もすきなひとだ。
白い肌も指先の埋まるふくりとしたやわらかい感触も張られた痛さと同じ強さで思い出せる。
いやなところなんてひとつもなかった。
ともすればディーノよりよほど男らしい決断力も奔放に見えて誰よりやさしいところも。中も外も好きなところばっかりに違いなかった。
なのに腕からするりと抜け出ていったのをただ見送るだけだったのは。
言われたことがどれもこれも確かにあたっていて、数日前には目を覚ましたとき腕の中にいるのは恋人だと思っていたのに今日目覚めるときはたった数日でなじんでしまった雲雀のことをねぼけながら探していた。
ちいさなまるこい、黒いあたまを。まったく現金なことで自分でも呆れるほかなくディーノははあとため息と一緒にあたまを抱えてべちょりとシーツにうずくまった。
無意識だけに言いようのない羞恥で上がった体温がじわじわ身のうちがわを焼いている。肌の表面が乾いてほてってきた。
吐いた息がディーノとシーツのすきまにこもる。ぬくくてしめっぽい。
たぶん起きしなの無意識だけを見られていたわけではないと思うとどうしようもない気持ちになる。
申し訳なさとか情けなさとかいろいろがめためたにぬりたくられたみたいな。しょうもない沽券も。
「だっせー……」
未練がましいのはわかっている。
今しがた去ったひとへも、雲雀へも。両方。
もう十年も昔のことを。雲雀が向けてくれるつたないばかりでひたすらまっすぐな好意をはぐらかして、ディーノ自身も雲雀へ向かう気持ちをやわやわとうまく飼いならしては身のうちにしまいこむことに必死になって。
逃げたのはディーノだった。
自分のきもちに責任を負う自信もなかった。雲雀を傷つけてしまうことをひたすらおそれていたのは、そのぶん自分が傷つくのがこわかったからだ。傷ついてしまうかもしれない雲雀を見て傷つくことがこわくてたまらなかった。
しかもよほど雲雀の持ち合わせる性をねじまげるようなことをしてまで長持ちする気持ちかどうかも自信のない。
ながもち、という言葉がもううしろむきなのだ。気持ちが永遠にとぎれないものでないことをもう知っていた。おとなだったから。
けれどこどもすぎて、それをひっくるめて受けとめることもできなかった。
そうしてディーノのほうから目をそらして距離を取ったくせに、結局視界に入れきらないことはできなくて距離を取りきることもできなかった。
ボンゴレとキャバッローネの関係を言い訳に中途半端に雲雀を気にかけることだけは忘れられられなかったことが今ならわかる。
「いっつもそーだよな……」
あげくほかに好きになったひとを自分から離すことを考えもしなかった。
ディーノは基本的には守ることしか考えない。恋人がディーノの、ひいてはキャバッローネの庇護のもとから出て行くなどと言い出せば心配して気を揉むことを知っているから、学も仕事も今手にしうるなにもかもをちゃんと手に入れたことを、「心配しないで」を言葉でなく手のひらに乗せて見せてくれた聡いひとにそこまでさせてしまったことを申し訳なくかなしく、たとえようもなくありがたく思った。
平手の置き土産つきで、まるで守られている。
腕の中から出て行ったのは確かに彼女ではあっただろうけれど、ディーノもまたあたたかくやさしいうでの中から出たのだ。
かごの中の鳥が、すべり込んできた飼い主のほそい指に止まる自然さのまま空に放される。ディーノが自分ですら気付かないうちに空を見上げていることをいとしいひとはディーノよりよほどちゃんと見ていた。しずかにじっと、きっと何年も。
シーツにじんわりしょっぱいなみだが染む。
そのきもちに気付かないで思い巡らすこともしなかった。
ごめんなんていうつまらない、ちっぽけな謝罪は彼女の矜持をきずつけるだろうかといまさら思う。
仕事でまわす頭とは別の部分でちっとも回らないあたまでさっぱり考えが及ばないつたなさをまたはがゆく感じ、それでもやっぱりついさっきかけたことばを言わないよりは言ってよかったと信じてディーノはじわじわ泣いた。
ごめんなさいとありがとう。シンプルすぎる、せりふとも言えないことばを受けとめてくれたうつくしい背中のたたずまいを思った。
大人のわかれの場面には似つかわしくない言葉や態度は恋人同士のそれには違いないけれど、どこか母親とこどものようだったかもしれない。家族にちかいものになれていたのかもしれなかった。
止められないなみだが出てくるなんて久しぶりで、泣き方をわすれたディーノはまいごになって途方にくれたこどもみたいにすなおなきもちでしずかにしとしと泣いていた。
しおからい水がまつげをそっとつたっている。