よく晴れた日でありますよう(090505)






廊下に履き慣れないスリッパの裏をぺたぺた鳴らしながら歩いて来る不愉快な気配にもいつの間にかもうすっかり慣れてしまったことを雲雀はいまいましく思っている。
だいたい派手な音を立てて校門に乗りつけた赤い車が違法駐車ではある。
「きょーうやー」
「……ノックくらいしなよ。教わらなかったの。」
「ワリ」
五月晴れた空の陽気は風までかるくしてカーテンを巻き上げた。それは執務机のりっぱな革張りの椅子にゆうゆう腰かける雲雀までをやわらかく撫ぜている。
優秀な副委員長が週に一度は選択しているカーテンだ。そこらの教室の、いつ洗ったのかわからないような埃まみれのものとは違う。
休み前に付け替えられたそれはふんわりと洗剤のかおりがして、雲雀はふと鼻をならした。
そうだ、今度各学級の風紀委員にカーテンの清掃をやらせようとメモに書き留める。
「……なーんでおまえ、休みなのにガッコウにいんだよ」
ソファにどかりと座ったディーノはとろとろ、眠そうにしていた。声もどことなく間延びしていてねだったとしてもとても今は戦いがいがなさそうだなと残念に思う。
だいたい雲雀の気を削ぐのがうまいディーノだ。こういうどろんとしただるい空気のときはどのみちはぐらかされる。
「仕事があるんだよ」
「ふーん……」
「あなたこそ許可もなく入ってきて、なに」
「……なにって。今日なんにちか知らねーの?」
「五日。」
ディーノはふわふわした目で雲雀を見ている。雲雀はペンを走らせて週明けに指示を出すべきことをまとめた。
しゅるしゅるとペン先が紙にこすれる音だけがちいさな応接室に響いている。
「チャイム、鳴るか?」
「学校は休みだよ」
「……昼メシ食わねえ?」
ふわんとした目だ。ディーノがやさしい、そのくせすがるみたいな目で見てくる。雲雀は手を止めた。
そういえば空腹かもしれない。授業のある日ならいつも草壁がいれたての茶と弁当を持ってくるのだけど連休中は休みを取らせている。
昨日と一昨日はどうしたのだったろう。母にも祖母にも弁当はいいと言ったことは覚えている。時計を見やった。
「……ああ、もう十二時だね。いいよ」
「こっち来いよ」
あからさまにほっとしたふうのディーノがちょいちょいと手招きをしている。応接机に勝手に置かれたしろいビニールの中身が今日の昼らしい。
お茶を要求しようとしてけれどやめた。
部下のいないいまディーノには無理な要求だ。だいいち中学校の給湯室を破壊されるのは本意でない。
しかたなく自分で茶を煎いれようと立ち上がった雲雀がディーノがだらだら座ったままのソファをすり抜けていこうとするとぎゅっと手をつかまれた。
「……なに」
「どこいくんだよ」
「お茶をいれるんだけど」
なんでさっきからそんなに必死そうなのだろう。いらいらした。
つかまれた手首をやわく器用にひねられてディーノの思うよう隣に腰掛けさせられる。部下もいないくせに、とまたいまいましくなっている。
「まあ待てって」
振り払った手がビニールの中につっこまれて、いびつにゆがんだ場所から金属のポットを取り出した。
ステンレスの水筒だ。
「茶もあるから、安心しろ」
なぜだか誇らしげにディーノは言って水筒をひねる。胴体から離れたコップにこぽこぽ、しろい湯気をたてて茶色の中身が注がれていた。
真昼の日を反射してきらきらまぶしい。
「ほうじ茶……」
「ん、よくわかったな。あ、コップが一個しかねえ」
まあいっかとディーノが差し出してきた水筒のコップに雲雀はくちをつけた。
ディーノのコップがないのはまあ雲雀の知ったところではない。
ほかほかしたものがふわんふわんと鼻をくすぐって、しろい蒸気のむこうでディーノがまたわらいながらごそごそやっている。
「ほーらいっぱい食えよ」
水筒が取り除かれたビニールの中から、四角く整った折り詰めを五つも取り出してていねいにふたをあけた。
ひとつもひっくり返さなかったのをほめるべきだろう。
そう思ったから、人さし指と親指のあいだに慎重に挟まれたしろいパンと間に挟まったとんかつを文句も言わず受け取った。
口に運ばれたそれを雲雀が無事にもぐもぐ咀嚼するさまをディーノは心配そうに待っている。
ディーノじゃあるまいしこぼしたりはしないのに。
ぺろりと食べるとまたひときれ差し出してくる。受け取って食べる。もごもごやってもやってもディーノがわんこそばみたいに渡してくるのであっというまに二折がからっぽになった。
食べ盛りなのだ。
ただ三折目の半分に来たあたりでいいかげん腹もふくれてくる。お茶も飲みたい。だいいち、ディーノも食べればいいのだ。
雲雀は受け取ったひときれをディーノの口につっこみ返した。
「ぶっ」
「食べれば」
「俺はいーんだよ」
「食べなよ」
「いーっ、て……」
開いた口にむりくりねじこむと観念したのかもごもごし始める。ディーノの目の下にはくっきりくまがあってそれを見ながら雲雀はお茶をすすった。
丁寧に淹れましたという感じがする。たいしておいしくもないお茶がなぜだかむしょうにおいしかった。
口の中を湿らすとまたカツサンドが恋しくなってひとつつまんだ。だってほかほかでなんだかこっちもすごくおいしい。
ひときれめを食べ終わったディーノが、雲雀の置いたコップにとくとく茶色の液体を注いで飲んでいる。あちっとやけどをしながら。ひとつきりのコップをわけあっている。
「水筒、買ってきたの」
「んー?うん、イタリアでな。」
「……中身は。」
「飛行機でお湯もらってきゅうすで淹れた」
「あなたが?」
「うん。」
「そう」
隣に座っていたであろう髭はさぞや呆れただろう。スチュワーデスも迷惑なことだ。ディーノの情熱のかけどころはまったく間違っている。
結局ふたりぽっちで折り詰めをぜんぶからっぽにしてしまった。
「満腹だよ」
食べ過ぎだ。午後の仕事に支障が出るかもしれない。ねむい。
「そーか」
「あなたは加減ってものがわかってない」
「うんうん」
ディーノは満足そうに雲雀のこごとを聞き流して、あろうことかこしょこしょ髪の毛を撫で始めた。
「……何しに来たの」
「んー?」
「ねえ。戦ってくれるの。」
「いや。わりーがその時間はねえんだ。とんかつ食わせに」
「なんでとんかつ」
「だっておまえ細こいからさ。肉と油が足りてねーんだ。おっきくなれねえぞ」
「……」
「……うまくなかった?」
「おいしかった」
「そっか」
おいでとうれしそうに言われてめんどうだったので無視しているとしょーがねーやつ!とディーノが寄ってきた。
ほんの数十センチのことだ。
抱き寄せられるというよりはディーノのわっかになった二本の腕が虫取りあみみたいに雲雀をすっぽりつかまえている。
ゆらされるのは梳かれている髪の毛だけで、ふれたからだはびっくりするほどあったかくてきもちがいいだけだった。
ねむたい。
「……おっきくなれよ」
思いがけずおちてきた硬い声をふしぎに思って見上げるとなんだかディーノはせつない顔をしている。
おおきくなって。ぐんぐん成長して。でも知らないところでおおきくなってしまわないでで。
目に浮かんでいたのはわがままだったのだろう。
ごまかすみたいにばつがわるくまぶたにくちびるがふれて目をつむるとそのまま手のひらでおさえられた。
おめでとう、と耳元にちいさく吹き込まれてなんだろうと思う。
ディーノの手は魔法みたいに眠たくて、それが生まれた日のことを言っているんだとわかったのは朝母や祖母にも言われたのをぼんやり思い出したゆめの中だったのかもしれない。



うとうと起きたら日は影をながくさせていてオレンジの応接室の中にディーノはいなかった。
(……ゆめ……)
机はぶかっこうに片付けられて水筒とビニール袋だけが残っている。起き上がると肩からずりおちた上着は雲雀のものでなくディーノのものだった。
「ママンとくえよ」とへたくそな字で書かれたメモの貼り付けてあるビニールを覗きこむとひとつだけろうそくのささったかしわもちが平らに十ほど並んでいる。しかもプラスチックの箱が三段重ねなのだからやっぱり限度を知らない、とあきれながら手をやった首筋に夕焼け色の跡があることを雲雀はしらない。